きっかけ

私は、ウソが大嫌いです。ウソを憎んでいます。これまで、度々、ウソに嫌な思いをしてきました。

ウソに目を向けるきっかけがありました。

平成13年、当時私は学習塾を経営していました。5月、従業員である講師(社員)が生徒を引き抜いて塾(会社)を辞めました。かなり大掛かりで計画的な仕業でした。不法行為は明らかでしたので、私は法に則り告訴しました。しかし、生徒や家庭に引き抜きを働きかけたという事実関係は明白でしたが、立証という大きな壁が立ちはだかりました。

民事裁判は刑事裁判と違い、強制的な取調べ権がないので、立証主義という名の下、原告が被告の不法行為を立証しなければ、事実でも、どんなに正しくても、主張が認められません。また、立証には困難を極めるのが常です。一方、被告は、証拠を残していなければ、否定するだけで済みます。さらに、いくらでもウソがつける!のです。

裁判で「いくらでもウソがつける!」という事実に、わたしは度肝を抜かれました。皆さん、知っていたでしょうか?日本の民事裁判では「いくらでもウソがつける!」という事実を。少なくとも、私は、全く知りませんでした。いや、私は、裁判では「絶対にウソがつけない。」と思い込んでいたのです。

裁判に先立ち、原告被告及び証人は、宣誓をして署名をしなければなりません。公判の当日、私も当然宣誓しました。

宣誓「良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。」

望むところでした。
「これでようやく真実が明らかになる。真実が明らかになれば、判決は私の勝訴以外はあり得ない。後、もう少しの我慢だ。」
私はそう思いながら、相手方の宣誓の言葉を聞いていました。
ところが、やっと被告の尋問の時が訪れ、被告が質問に答え始めると、ウソ話がまさに洪水のように口から溢れ出てきました。

私は唖然としました。しばらくは、何も言葉が出てきませんでした。ふと裁判官の表情を確認しました。裁判官は、極めて冷静に、被告のウソ話を淡々と聞きいっていました。
「そんな馬鹿な!裁判でウソをついてよい?」

その後の数ヶ月間、私は、余りのショックに呆然とした日々を過ごしました。
「そんな馬鹿な!裁判でウソをついてよい?」心の中で、この言葉を何回つぶやいたことでしょうか。

この時、私の人生観は変わりました。少なくとも、日本の司法への信頼感は吹き飛び、日本社会への疑念を強く持つようになりました。

なかなかこの現実を受け入れることができませんでした。つまり、ひとつは、文字通り、先進国日本において、司法が信頼に値しないことへの失望感。もうひとつが、正しい自分の主張が否定され、ウソをつく被告の主張が肯定されているという、裁判におけるあるべき姿と真逆の価値観。

敗訴という結果は、いつまでたっても受け入れ難いものでした。
私は、間違いなく、多くの日本人が、私同様にこの理不尽さに苦しめられ、裁判制度や日本社会に疑問を抱いていることだろうと思いました。

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